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垂水区総氏神 海神社

由緒

由 緒


由緒 

 今から千八百年前くらいの昔、神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。

 この御神徳により、航海安全・漁業繁栄の神として仰がれることはいうまでもなく、さらに当地が海上陸上を問わず、古代交通の要地であったことから、交通安全の神としても仰がれております。

 又海は万物をはぐくまる所、綿津見大神の娘 豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)は彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)に嫁がれて、皇室の親である鵜鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)をお産みになりました。そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、彦火々出見尊は満珠干珠(みつたまひるたま)の霊力によって水をつかさどり、厄難を去る神であるところから、水産業・農業をはじめ水によって生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神でもあります。


歴史的背景

 当社周辺からは縄文・弥生時代の住居跡・土器などが発掘されており、古来より人々がこの地域で生活していたことがうかがえます。

 また、当社西方約550mの所には兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳があり、成立は二世紀末から五世紀初めとされ、瀬戸内海の海上航路の重要地である明石海峡大橋を望む高台に造られています。
 この墳丘を覆っていた茸石は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島から運んできたものであると云われている。このことから被葬者は、海事に従事していた人々を治め、この地域に勢力をもっていた豪族であったと思われ、この時代からすでに海運が活発に行われていたことがうかがえます。

 以上のことから海事に関係の深い人々がこの垂水の地には多く存在していたと思われ、航海術が未発達の当時、海上鎮護のため海大神を信奉する人々が社殿を設け祀っていたのが始まりではないかと考えられます。

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